春になったと思ったら、いきなり夏日です。トライアルGP日本大会はちょっとしか暑くなくて、よかったよかった。

原発事故の思い出【ビッグパレット】

村のみんながビッグパレットに避難したというのはその日のうちに連絡があって、ぼくらにも伝わってきた。みんながいるのなら、一度行ってみるかと、なけなしのガソリンを使っていってみた。当時、ガソリンは血の一滴というか、血よりも貴重だった。

ビッグパレットは、以前に一度出向いたことがあった。駐車場がおおらかなので、そこにクルマを止めて誰かと待ち合わせて、別のどこかへ出向いたんだった。ビッグパレットが目的地じゃなくて申し訳ない。今回は、ビッグパレットが目的地だった。

ビッグパレットのある郡山市も、立派な被災地だ。崩れてるビル、歪んだ道路、地震の爪痕はそこここにあって、というか、こんな地震被害は川内村にはまずなかったから、大きな地震が襲ったんだなぁ、とびっくりだった。

それでも、ほかの郡山市界隈に比べると、ビッグパレットはわさわさしていたと思う。

2011年ビッグパレットの犬

駐車場に止まっているクルマの何台かに1台は、中にワンコが乗っていた。ほほ笑ましい感じだったけど、ビッグパレット内部に犬は連れていけないから、こうやって避難させておくしかないのだった。ペット専用の避難所もあるにはあるのだけど、犬にだって引きこもりがいる。他の犬と仲よくできない(同じ部屋にいっしょにされてるわけじゃないけれど)犬だっている。

施設内には手書きの案内が貼れていて、臨時役場まではすぐたどりついた。村長のところへいって、笑顔を見て、被災証明のもらい方など聞いて、ついでに食ってけとカップラーメンをごちそうになった。

2011年ビッグパレットの村長

ほんとはなんか役に立つかと、封を開けていない毛布なんかを持ち込んだんだけど、支援物資の持ち込み部門はてんてこ舞いだったので、そのまま持ち帰ることにした。直接知り合いのところに持っていけば、あるいはもらってもらえたかもしれない。

2011年ビッグパレットの案内板

役場の機能は、手作りでなんとか復旧に向かっていた。必要最小限の住民サービスだったけれど、うちの村みたいな、小さな集まりだからできたことかもしれない。大都市でこんなことが起きたら、いったいどうなってしまうのか。だから原発は大都市にはないんだよね。川内村に富岡町の人が避難しただけでたいへんだったのだから、郡山市の人が避難してきたらとんでもないことになる。郡山市はじゅうぶん大都市だけど、全国的にはまだまだ大きな都市はあるから、それを考えると頭痛が痛い。

2011年ビッグパレット

臨時役場を辞して、施設内を一巡してみる。人口3,000人ほどの川内村の人だって、みんな顔を知っているわけじゃない。でも5分に一度くらいは、知った顔にすれちがう。忙しそうにボランティア仕事をしている人、廊下のイスに腰をかけて、通りがかる人に声をかけてしゃべっている人、仕事らしい仕事から、仕事らしくない仕事まであったけど、この突発的に誕生したコミューンの中では、それぞれ重要な仕事に思えた。

2011年ビッグパレットの子ども

歩き回って、ようやく何人かの知り合いに出会えた。ここには住所もないし表札もない。目の前のスペースが知り合いの居場所だとしても、たまたまどこかへ出歩いていたら、その人の場所だとは気がつけない。誰か一人に出会って、別の誰かの居場所を教えてもらって、そうやって自分の知りあい地図を作っていかないと、避難所訪問はうまくいかない。

2011年ビッグパレットの区長

ここは当時のうちの行政区長の執務室だ(笑)。この人に限らず、村のじじばばには、周囲の都市に娘息子が住んでいる人が多いのだから、そっちに身を寄せればよさそうなものだけど、いっしょにビッグパレットにいた人は多い。仲間思いというか責任感というか、もしかしたらさびしかったのかもしれない。

ビッグパレットそのものも被災していて、屋根が落ちたりしていたけど、そういうところでの暮らしは、災害進行中という高揚感だったり緊張感だったり、あるいはストレスを感じながらのものだったように思う。